109.新大陸でのワイン・マーケティング
2017/04/21
1970-1990年代に新たにワイン作りをしたい人々が地球上を大きく移動しました。ヨーロッパから新大陸へ。大きな理由のひとつに、旧大陸ヨーロッパのワイン先進国が製造量規制を始め、新規に新しいワイナリーを開く、というよりも新しくワインぶどう畑を作ることが出来なくなったためです。南北アメリカ大陸かオーストラリア、ニュージーランド。さて何処へ移住しようか。この選択が彼等のその後の人生の明暗を大きく分けました。マーケティング戦略ゆえにです。
新大陸でのワイナリー起業は一応いずこも完成、定着しますが、次にどう売るかという当り前の課題と向き合わなければいけませんでした。 日本やアメリカ合衆国、はたまたヨーロッパにまで主に原料ワインとして供給するようになった南米のチリやアルゼンチンはいざ知らず、オーストラリアやニュージーランドの一段落したワイナリーは、本当に困ったことでしょう。確かに或る品質のワインが大量に製造できるようになったけれど、それを何処で消費させるべきか。何しろ人口の少ない両国のことですから、全国民がワイン性アルコール中毒になったとしても消費量はタカが知れています。ワインというお酒は、矢張りその地を訪れてこそ愛着も湧きますので、世界で一番交通の便が悪くて訪問しにくい国のワインはファンが出来にくい。さてどうしよう。
一昨年の夏場(ということは南半球の冬場)、面白い人物が我が余市のOcci Gabi Wineryを訪れました。朝方、私が庭の噴水池のほとりでバラの世話をしていると、我がワイナリーの本屋(ほんおく)の中を素通りして私の傍らまでやって来て、「やっぱり、ワイナリーはこうでなくちゃなあ!」と話し掛けます。丁度ひと仕事片付いた私は、このように直接話し掛けるお客が大好きゆえ、庭のテーブルでコーヒー・ブレイクに誘いました。「どちらからおいでですか?」「ニュージーランドから。いや日本では滋賀県に住んでおります。」二時間ばかりの彼との会話でニュージーランドのワイン・マーケティングの大変さを教えて貰いました。
なんでもこの人物は東海道線の大きな駅前でお土産店を経営しているとか。何年か前にニュージーランドでのワイン作りを思いつき、或る大きさのワイナリーで或る面積のぶどう畑を借りて世話をしているそうな。実ったぶどうはそのワイナリーの醸造所で自分もお手伝いしながらワイン化し、めでたく自分の名前のラベルを貼ったビンが数千本完成。それを日本の自分の店で売ればワイナリー・オーナー気分もちょっぴり味わえるなと思っていたら、思わぬ付録が付いていたとのこと。そのワイナリーのオリジナルワインも一定量(といっても可成りの量)日本で売るのが条件なのだそうです。販売義務化されたワインが多すぎるので私にワインを売りに来たのだそうな。ご自分でワイナリーを経営してみようと思った動機の軽さもさることながら、手余ししたワインを日本のワイナリーに売ろうという考えの柔軟さに驚きはしましたものの、とても正直な人の身の上話を聞く思いで、私も色々質問してみました。
「ニュージーランドに貴方のような日本人は何人居るのですか。」全ニュージーランドを知っていると豪語するその人物の言によると、10名程同様の日本人が居て、例の有名なK氏もその一人だそうな。土地は持たず、厳密には畑も自己所有ではなく、醸造設備は勿論そのワイナリーの所有で、日本に帰ったらニュージーランドでワイナリーを経営している、と吹聴している人々のことです。
カスタム・クラッシュ(間借り醸造)とカスタム・グローイング(間借り栽培)がセットになっていて、何やら背中を冷たい風が吹き抜ける思いです。売上ノルマを課せられた銀座のチーママみたいな感じです。
先日、有名航空会社の会報誌にオーストラリアはハンターヴァレーにも同様の日本人が居るニュースが載っていました。そんな鵜飼の鵜みたいなことしてないで、北海道に来ればいいのに、と思うことしきりです。
前述、「やっぱりワイナリーとはこうでなくちゃあ!」の続きは、「敷地も広々していて庭もきれいで、大きなぶどう畑に取り囲まれて、とこうでなければワインは売れないよね」です。どうせ誰も向こうまで確かめに来ないのだからと、東海道線の駅前でニュージーランドの自前ワインといって売ってもお客が納得しないということでしょう、きっと。