114.アロイス君のこと⓵

2017/08/11

  かつて西ドイツでぶどう栽培とワイン作りを学んでいたころの級友にオーストリア人の青年がいました。アロイス・シェアツァー君、17才。その時私は26才ですから、可愛い弟のような存在でした。いまだに親交が続いていますが、微笑ましい思い出を沢山作って呉れた真の友人です。
  大の日本ファンで、入学式の日にカローラの新車で乗り込んで来ました。又、私は学校の在る町のスポーツ・クラブでサッカーのレギュラー選手となりましたが、彼は近くの町の道場で柔道の稽古に汗を流します。日本人の師範が時々来るというので一緒に出掛けると、そこは知る人ぞ知るベルツ博士ゆかりの柔術場。明治初期、我が国で医学を教授したあの高名なドクターの出身地が、学校のある町から15分程のところだったのです。そのすぐ近くに大詩人フリードリヒ・フォン・シラーの生家があり、更にそのすぐそばにダイムラーとベンツが創業したかの有名な自動車会社があったりと、何やら近代ドイツ史をなぞるような地域でした。本当に今でも殆んど信じがたいような話です。
  生まれて初めてのパリ旅行も彼と一緒にカローラで。耳学問ながら、私のほうが彼よりもパリ情報には通じていましたので、ルーブル美術館へ行ったり、ラーメンを食べたり、学生街へ出掛けたり。夕闇迫る頃は、例の丘の上のサクレ・クール寺院のとても大きな階段に腰掛けて、色々話し合いました。彼曰く、「僕はゲルマン系だから、正直言ってフランス人は嫌いだ。でもそれだからこそ隣りの国のパリは一度見てみたかった。でも君はこんなフランスにどうして興味を持つの?」私が答えて、「この国がなかったら、現代の民主主義も自由主義も無いと思う。ちょっぴりいい加減だけれど必要な国なのさ。」「ところで、さっきからこの大階段に座っている人達は大声でフランス語の歌を歌っているけれど、これ好き?」と彼。シャンソンであったり、ラ・マルセイエーズであったりと、本当は好きな曲が多かったけれど、そこは少し相手の気持ちを忖度して、「ううん、僕はいつも君もほめて呉れるように、ベートーヴェンやモーツアルトの方が好きさ。」得意の口笛でアイネ・クライネ・ナハトムジークの一節を吹いたものです。
  「僕の家から40kmの処で生まれたウォルフガングの曲を、どうして10000kmも離れた処の君の方が僕よりよく知っているのか不思議だ」が彼の口ぐせでした。