151.私のワイン作り人生①

2019/01/30

  私は人生で自分の身に起こることは、すべてが偶然という名の必然、即ち「運命」であろうと思っている人間です。客観的に見ても、自分の人生は何と幾多の偶然で織り成されたものかと思わざるを得ません。「ワイン作りと自分」と多少テーマを絞ってみても、面白い偶然即ち運命を次から次へと数え上げることが出来ます。
  先ずは自分が生れ、そして生きた時代。ベビーブーマー(いわゆる団塊の世代)の人々はそれ迄の人類の青年達とは違って、割合気軽に自己の全く知らない世界へ人生の歩を進める決断をするようになっていました。長い平和とグローバルな経済の中、本人さえ望めば可成りの確率で、地球上の未知の地で未知の学問を修めるチャンスがある時代に生まれたのです。もっとも、これも又々大きな偶然というべきですが、そのようなことは必ずしも地球上の全域で普遍的ではなく、私の生まれたのがそれら好条件がすべて整っていた日本というとても不思議な国だったのです。
  兎に角1970年代の中頃一見何の必然性もないのに、即ち私自身が強く熱望した訳でもなく又社会情勢がそうだった訳でもないのに、「ぶどう栽培法」と「ワイン醸造法」を西ドイツの国の学校で、それも理論と実習をうまく組み合わせた世界でも最初の何校かのひとつで勉強すべく出掛けました。日本の通貨「円」がまだとても弱い時代のことです。非常に滑稽なことながら、ワインを飲む習慣もなく本格的に原料ぶどうを栽培する人々も居ない国からぽつねんと、専門的な理論習得を目指して旅立ったのです。しかも当の本人は酒が余り好きではないと来ていたのにです。
  東京での大学生時代にパリ革命に共鳴しての学生運動に半身嵌(は)まり、在学中はサッカーに熱中しながらも自分とは何かを問い続け、大きな失恋も経験して日本に居るより何処か外国で時間を過ごしたいと考え始めていた時に、母方の義理の叔父に勧められてドイツに向かいました。
  大学入学直後に父が亡くなったことも大きく作用しました。何しろ父は47才での急な病死だったため、自分としてはせっかくの人生だからやりたいことは何でもやってみようという気持ちになりました。すべて自分で決めて行動しなければと追い詰められていたのかというと、それ程切羽詰まった精神状態ではなかったとは思っています。しかし中学・高校の頃から英語の成績が他よりも良かったせいで、東京外語大の英米科に在籍したものの、外国語に熟達して何処かの大手商社に入り、活躍したようでいて実は会社に上手く利用され尽くすのが見え見えの、主体性の無い人生を歩む気には全くなれず、中退しました。
  それでも何かひとつ位は外国語を物にしなくては、しかもそれは自分のためにと考えていたところにドイツ留学のオファーですから、一も二もなく引き受けた次第です。西ドイツでもドイツ語習得を軸にサッカーは欠かさず、そして日本人が誰も知らないワイン作りの新理論も学び切ろうと励みました。それは受験用の丸暗記勉強とは似ても似つかぬ手応えのある世界で、きっと自分の人生で頭脳と肉体を一番効率良く回転させた時期だろうと確信しています。
  1977年西ドイツより帰国して叔父とワイン会社を興すに当たり、日本全国のワイナリーを見て歩きました。そしてびっくり。誰一人ワイン用ぶどうを或る程度の面積で栽培し、その実からワインを作ろうとしていなかったのです。ワイナリーとは看板と名刺だけの話で、確かにワインは扱っているのですが、それが殆ど全部地球の裏側で作られたもの。「ビン詰め」さえ国内の自社内で行えば、「純国産の自分のワイン」と主張することができる法律や風潮がワインメーカー業界全体を色濃く覆っていて、モラルというか「ワイン作り」そのものが完全に崩壊していました。当時の「酒税法」はお酒作りの際の酒税徴収が目的の法律ゆえ財務省国税庁が主管し、原料のぶどう栽培のことやワインの作り方の指導・制限は皆無の状態でした。別に泣く児も黙る国税庁に異を唱える気は更々なくても、これは監督官庁の選択を我が国は誤ったなと慨嘆したものでした。
  しかし我が国の世間全体がそうであればこそ、完全にヨーロッパ式のワイン作りをすれば大きなチャンスはあると、自分に言い聞かせながら長い道のりを歩くこととなりました。国際為替の妙ゆえ(要するに日本の円が相手国の通貨より物凄く強いがゆえ)、地球の裏側からやって来る原料ワイン(そのもの)や濃縮果汁は信じられない程安価に手に入り、一度嵌まったら抜けられない世界がそこにあったのです。表現は悪いですが、原料ワイン輸入の詰め替え産業(日本のワイン産業)は麻薬のような悪魔的な魅力を持っていました。「ワイン作りはぶどう作りである」という教えを受けて来た私にとって、他人様が作ったワインを輸入して詰め替えるだけだの、果汁が発酵したら困るから何倍にも濃縮して輸入し、しかる後に日本国内で水で割って発酵させたものをワインとしてビンに詰めるだのという行為は、決して「ワイン作り」とは呼べないものです。確かに最初この方式で大成功した北海道の自治体系ワイン会社やそこの町長が悪い。しかしそれをずっと野放しにして来たお役所も責任の半分は感じて頂かないと。
そうです。大袈裟な表現かも知れませんが、我が国の国益がかかっているのです。お陰様で我が国のワイン作りの歴史は確実に50年は遅れてしまいました。それどころか今後もこんなことばかりしていると、日本は決して本当のワイン作りは出来ない国に成り下がってしまいます。きっと不可能なことかもしれませんが、ワインや日本酒の監督権を農水省に移すと、もっとスッキリするかも知れません。原料であるぶどう作り・米作りを監視するのです。ワイン先進諸国がやっているように。