175.観念論的ワイン作り

2019/12/26

  ワイン作りは99%「ワイン用ぶどう作り」と言ってもよいと思います。そしてそれは農業なのですから、「ワイン用ぶどうを作るということ」そのものは一種の「物作り」です。ですから勿論、ワイン作りは決して芸術でも、哲学でもありません。ところがワイン用ぶどうを作ることにきちんと精力を注いでいない我が国のワイン醸造家を気取る人達は、この大事な「物作り」の部分をなおざりにしておいて、すぐに醸造理念の議論へと進みたがります。その時、一番大事な原料作り(物作り)の部分が妙に神格化されて、よく超自然的に描写されたりもします。まるで話を非常に理屈っぽくしておいて、自己の「物作り能力不足」の部分を覆い隠せるとでも思っているが如くにです。
  気候や土壌のこと、流行り言葉で言えば「テロワール」のことを前置き程度に並べて、あとはぶどうを愛情を込め祈りを込めて大事にワイン化すれば極上のワインが生まれる。とか何とか、丸で宗教のようです。
  そんな輩に限って、貧弱なぶどうから劣悪な醸造設備で精神論を唱えつつ作った自分達のワインこそが、至福の一品と考えるようです。端(はた)から見れば単に幼稚な子供が出鱈目に描いてピカソを気取る仕草に似ています。私が名付けて「観念論的ワイン作り」というのはそんな姿です。そしてこれが国内にはびこっています。
  何度も申しますが、ワイン作りとはワイン用ぶどう作りという物作り、すなわち果樹栽培農業であって観念論とは対極の超実践的な作業なのです。
  46年前のドイツの学校での教授達の言葉がよみがえります。「良いワインは良いぶどうからしか作れない」。しかも「ぶどうは毎年丸切り異なる味となる」となり、だから「君達は毎年違ったワインを作ることになる」と続くのです。何と分り易い実践理論でしょう。
  今迄輸入原料に頼ってワイン作りをして生きて来た人達や、法律改正でそれが出来なくなったからと言って、ワインにしてはいけない食べるぶどうでワイン作りを続けようとしている人達は、もう一度じっくり考えるべき時だと思います。
  もっとも、ワイン用ぶどうを或る程度大面積で作るといっても、決して思ってすぐに出来る程簡単なものではありませんが、、、。