52.ジャガイモ・タンゴのこと

2015/09/24

 1972年(昭和47年)冬のこと。猛烈な吹雪に見舞われ、羊蹄山麓・真狩の知り合いの家に泊めて貰ったことがあります。そのままカローラで走り続けたら、きっと立往生して翌朝には凍死体で発見となりそう、と考えたからです。泊めて頂く程の仲ではない単なる知り合いながら、真夜中にも拘らず、夜食まで用意して呉れました。真狩名産のジャガイモを卸し金で卸し、ぎゅっと握って水気を少し切り、具の入った正油汁の中に離すと、不思議や不思議このイモの「変造物」が鍋の中でコリッと固まります。ちょっと煮込んでアツアツを頂きましたが、状況も良かったのでしょう。私の人生で最高の料理を味わったことになります。正確にはイモ・スイトンと呼ぶのでしょうが。
 丁度その3年後のこと。場所はドイツの学校の食堂。或る日の昼食にこのジャガイモ・ダンゴが出ました。当時ドイツでもこの料理は忘れられたレシピに入りかけていたらしく、同席のクラスメートが、これは何だろうねと言いました。答えを知っていた私が誇らしく「ジャガイモだよ」。すると隣のテーブルの一学年下の生徒が、「へぇー、日本じゃジャガイモからこんなもの作れるんだって。凄いねぇ。」と、完全に私を馬鹿にした言い方。結局、何だかんだ言い合って、最後は取っ組み合いとなりました。
 二人して校長室に呼ばれ、校長の事情聴取を受けました。「原因は何かね?」二人ともあった通りを述べると、校長が食堂の料理長を呼び説明させます。ウローゼヴィチ夫人といってユーゴスラヴィア系の人でしたが、味はともかく、いつもたっぷり食事を作って呉れる人ですから生徒の人気もある人です。彼女の説明を聞いてドイツ人の下級生も納得し、校長の前で彼が謝罪し、二人が握手して一件落着。下級生が校長室を退出し私と二人切りになると、校長が「落君、君の意見は正しかった。しかし彼は君よりうんと年下です。理を尽くして説明すべきだった。ドイツは暴力より言論で決する国です。決して暴力はいけません。」
 相手の名前はミヒャエル。苗字は忘れたものの、この時scherzen(シェアツェン、からかう・馬鹿にする)という動詞を覚えました。そして事件は学校中の知るところとなり、そのすぐ後のクリスマスに校長夫人からディナーの招待まで受けました。ドイツ人でさえ忘れかけたジャガイモ・ダンゴのレシピのことでケンカした子に会ってみたい、と。
 先日、北海道庁OBのH氏から、例え正論でも高位の人々を刺激するような直接的言動はどんなものか、と言われました。自分の好きなH氏ゆえ、その後深く考えている時にふとこの話を思い出しました。とにかく、囲りは殆んど皆、私より年下なのですから、そして私も彼らも北海道の観光発展を願っていることに於いては同じなのですから、今後は少し軟らかく意見を述べましょう。